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というわけで
バタバタとしてるうちに、図らずも年間ベストのUPが年内最後の更新と相成りました。作品についての雑感はまた後日ここのブログに載せるつもり。関係ないが、この3日間は現在の住まいと実家両方の大掃除に没頭。やり出すと徹底的にやりたくなる性格なこともあり、大変疲れた。





関係ないが、室内履きに買ったバブーシュ。
履き心地も良い。
| かっつん | 22:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
多和田葉子/文字移植



93年刊行の『アルファベットの傷口』を改題し、99年に文庫化したもの。現代版聖ゲオルク伝説を翻訳するため、カナリヤ諸島の火山島を訪れた〈わたし〉による独白。

言葉が言葉として成り立たないことへの不安、と言うんだろうか。原文を翻訳しようとする〈わたし〉だが、訳された文字はただの断片として浮かぶだけ。意味という根を持たない不安定な文字群は、そのまま〈わたし〉の精神の不安を感じさせる。穏やかだが、まるで白昼夢のように靄がかった島の景色。思索する〈わたし〉の視点に拠り映し出される人や情景は、ぎりぎりのバランスで保たれる幻想的な色を孕んでいる。物語としての意味を読み取り難い展開は、〈わたし〉の脅迫観念めいた不安感を共有させる。同時に、その不安が収束する先があるのではと思わせる、漠として曖昧な心地よさも。



それでも少なくともわたしはひとつひとつの単語の馴染みにくい手触りには忠実なのだと思うとそのことの方が今は大切かもしれないという気はしてきた。少なくともわたしはひとつひとつの単語を注意深く向こう岸へ投げているような手応えを感じていた。そのせいで全体がばらばらになっていくような気はしたけれども全体のことなど考えている余裕はなかった、全体なんてどうでもいいような気さえしてきた。



当たり前のものとして信頼している"言葉"の持つ不確かさや、その不確かさゆえに生まれる無限の広がり。そういったものが、頭ではなく体感として伝わってくる。多和田葉子の作品は、どれも言葉に対してそうした「手探り」をするような不思議な感触があるけど、今作はとりわけそうした部分をダイレクトに感じた。面白かった、と言っていいのか分からんが、奇妙な心地良さに包まれた作品だった。


| かっつん | 21:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
年末商戦に乗って



Fissler ロイヤル圧力鍋4.5ℓ
TESCOM フードプロセッサーTK4000
TESCOM ジューサー・ミキサーTM8000

を買った。圧力鍋の利便性は驚異的!
だとか。











| かっつん | 22:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
松浦理英子/葬儀の日



名前しか知らんままにしていて、今年になって初めて読んだ作家さん。今作はオリジナルが1980年に刊行された最初期の短編集。『葬儀の日』『乾く夏』『肥満体恐怖症』という3作が収録されている。

読んでる時の感覚として、笙野頼子や多和田葉子の作品と似たものを感じた。よく考えれば各々かなり違うんだけど、全体の感触が似てるように思う。無理やり色づけするなら、多和田葉子は『詩的でナイーヴ』、笙野頼子は『強靭なユニークさ』、松浦理英子は『ポップで脆い』といったところか。いずれの作家さんも、日常に漂う漠然とした意識を、ある程度具象化、もしくは抽象の事物にイメージを仮託しながら、その本質をガッチリ掴んで感覚的に伝え得る力を持っている。

文字を通して伝染してくる、自己や他人に対する過敏な好悪の感覚は非常に独特。"表層"って言葉からは間逆の、内臓から沁み出してくるような肉体性を伴った生々しい繊細さというか。こういう文章は男には絶対書けんだろうなーと感じるのは、男性である自分から見た勝手な視点なのかもしれないが、根源的な地点から生をクールに見つめるような視点は、(上手く言えんが)身体構造とも密接に結びつく、女性ならではのもの、という感じがする。

意識を感覚として伝えるような作品の感想を、頭で考えた言葉に拠って表そうとするのは無意味なのかもしれんが、でもやっぱり書いておきたくなるのも人の性。最初の『葬儀の日』が、物語としては一番解かり難い。葬式における"泣き屋"の私と、対になる存在として描かれる"笑い屋"の彼女。人称が不自然に入れ替わることからも、私と彼女は同一の自己らしい。普通に読むと「他人を好きになるのは、自分を好きになれない空虚さを埋めるためだ」とか「仕事などは、自分が何者である(べき)か掴めない人間が、精神の安定を求める手段としてするものだ」というような言葉があり、自身に向き合える「私」と、そうでない周囲との差異が書かれてるのかしら、と思った。面白かった。『乾く夏』でも、自分と他人との間で過剰に揺れ動く感情の機微が書かれており、二十歳の誕生日を"処刑"と呼称するところなど、10代特有のセンシティヴさが強く打ち出されていて、3作中で最も際立った情感があり読みやすい作品。最後の『肥満体恐怖症』は、女子寮で3人の"肥満体の"上級生と同室する女の子の話。肥満という事象を一つのシンボルとして嫌悪することで、過去に基づく心的なストレスから自分を護っている(ように見える)志吹唯子はとても痛々しい。それを半ば見抜きながら、表面的には何食わぬ顔で様々な言動を仕掛ける水木という巨漢の女を登場させるなど、かなり巧みな構成で上手い。漠然とした意識背景が加速度的に肉づけされていくようで、読後の残るものもこれが一番強かった。次は有名な『親指Pの修行時代』を読んでみようと思う。


| かっつん | 21:05 | comments(0) | trackbacks(1) | pookmark |
古川日出男/gift


『僕たちは歩かない』あたりから離れてしまっていた古川作品。今回まだ未読だった『gift』が文庫化されたので久しぶりに読んでみた。

文庫版に向け書き下ろされた1編を含む、全20の短編集。『古川日出男=世界の捏造』という独自式が頭にこびり付いちゃうぐらい、"ホントウのようなセカイ"を鮮やかに構築するそのスタイルは、斬新でとても強い印象を残す。日常から半歩ずれた(と錯覚させるが実はあり得ないレベルで)非日常的な設定が次々に繰り出され転回し、頭で理解する前に強烈な残像を残し消え去っていくようなお話の連続。

向井秀徳の即興ギターに乗せ朗読する古川日出男を見た時はさすがに引いたが、この人は恐らく自分のことがかなり好きで、自らの文章に酔ってるような匂いも少なからず有る。なので、部分部分の字面をパッと見ると、けっこうクサイところがある。けれどもその「クサさ」が小説において決して悪い向きに作用しないのは、言葉を操る圧倒的な力量は勿論として、それが可能にする"物語る作者の視点に読み手を同化させる"構造の巧みさに因るのかもしれん。極私的に閉じられた小さな虚構の物語、そこに読み手をリンクさせた瞬間に、全ての嘘は嘘で無くなり、作者の陶酔が即ち読み手のキモチ良さに変化する。

文字で溺死させる作家、とはよく言ったもので、部分部分だけ見れば結構恥ずかしいはずの言葉たちが、全体では読者を淫するに充分なパーツとして機能する。この人の作品を読んでる間の何とも言えん没入感(と恍惚感)は、少なからずこの小説世界への自己同化から来てるんだろうなー。とは言えこれは20代の現在の自分の感覚であって、例えば50代のオッチャンが読んで同じように自己同化出来るか?と考えると正直よくワカランけど。




シェルターのなかで、ライナーノーツを読み進めながら、あらゆる音楽を耳は幻聴として捉えた。全身の皮膚を虫が螫し、灼けすぎた首筋は剥がれた。肋骨が浮きでる程度に体重は減ったが、まだ生きている。きょうは生きる。
〈僕は音楽を聴きながら死ぬ〉


| かっつん | 19:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
モノクローム沖縄写真

宮古島/平良















宮古島/東平安崎






| かっつん | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
どうでもいい話にどうでもよくない話を交えて。※しかしまぁ考えてみるとこれまで自分以外にとってどうでもよくない話を書いた記憶は無いのだが。

昨日は昼から大阪へ出て、Mamboで昼飯ならぬ昼ケーキを食べていた。ここはホンマ何を食っても美味いなー。冬の澄んだ午後の陽が射すソファーにもたれ、甘いものと共に在るひと時ほど、休日を実感するものはないなーと思ったのでした。その後なんとはなしにヨドバシへ寄り、1年ほど前から輸入盤CDに対し頻々とエラーを弾き出すようになってきた我が家のCDプレーヤーがそろそろ本気で動かなくなりそうなので次はどうしようかしら、などとボンヤリ思いながらプレーヤーを眺め眺め、ついでにオーディオケーブルなども見ていた。すると何やらムクムクと湧き上がる欲求があり、それは何かというとスピーカーを新調したい!上位機種へグレードアップしたい!という欲望であることに気づいた。現在の機器はというと、学生の時分に買ったB&WのCDM9NTをLuxmanL509f一発で鳴らしてる。なのでアップグレードするならペアで100万ぐらいのスピーカーになるのか。と同時に100万以上になると現実的に厳しい。B&Wの上位機種だと、803Sがペアで80万円。本当はその上の802Dが欲しいがこれはペアで160万円也。間に上位機種と同じくダイヤモンドトゥイーターを備えた803Dがあり、これならペア120万円でなんとか手が出そうだがしかし。そこまで行くなら思い切って802Dへ行ってしまったほうが絶対幸せになれるよな、とは言え802Dをポンと買うような資力は無いので結局803Sが落としどころなのだろうな。あぁでも803と802だと根本的にスペックが変わってくるし、見た目の格好良さも全然違うんだよなー。でも802D買ったら今のプリメイン一発ではきっと鳴らし切れんだろうからそうするとパワーアンプも買わにゃならんくなって、結果として出費が雪だるま式に膨らむことは明らかなのでやっぱり無理だよなー。あぁ、金の無い悲しさよ。そしてペア100万クラスの他メーカー機種もやはり聴いてみたい。B&Wは音場が後ろに広がるのでクラシックに強いとか言われるのだが、わりとオールマイティにどんなジャンルも綺麗にまとめる優等生的な向きがある。なので、全く違うタイプでロックやジャズなど聴いてみたいという欲求もある。などと考えながらWEBで色々と他人のインプレや機器構成を見て妄想を膨らませるのは大変楽しい。






次に結構どうでもよくない話。ソレとの格闘歴はもう何年にも及ぶのだが、未だ打倒できぬのが輸入盤CDのケースについてるシール。むかーしココのサイトでの解決法を見て以来、開封の際には必ず、必ずこうするようにしてはいる。だがしかし、昨今はこれでスンナリといく低粘着性のシールは数少なく、どうしたってネチャっとした「痕跡」が残るものが多数を占めているような気がする。もうこれが残るのが嫌で嫌で仕方が無い私は、毎度ソローっとシールを剥がしては、あぁ、駄目だ!痕跡が残る!死ね!などとシールに対し毒づき、半泣きになりながら水に濡らしたティッシュでひたすらにこすったり、溶剤をつけてスポンジでこすったりして落とそうとするのだけれど、プラケースをそのように擦ると当然のことながら微小な傷が大量に発生し、せっかくの新品プラケースがいきなり擦り傷だらけになるという悲し過ぎる事態を招く。イライライライラッッ!。正直なところ、もうこれだけでCD買うのを辞めたくなるぐらい酷いストレスを感じるのだが、これって相当イラちなんだろうか。用途が輸送用の保護とかだったらまだしも、これが万引き防止のために付けられてるってのが本当なら、そのどっかのバカモノを呪い殺したい。ほんとどうにかしてくれ。



「↑こうなると死にたくなる」の図。

| かっつん | 21:42 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
買いました。という話

麻布テーラーで先月オーダーしていたシャツ×2枚を受け取ってきた。一つは薄いブルー地に細かな小紋が配された生地で作った。オプション無料期間中だったので、クレリック仕様はタダ。もう一つは白地に織りで柄が入ったやつ。同じようなのを持ってるけど、使い勝手が良いのでついでに作っておいた。2枚で28,000円はちょい予算オーバー。






ベースケーブル買い換えた。プロヴィデンスからモンスターに転換。M Bass12という型を買ってみた。ピュア・オーディオの世界では、ケーブルってのは一番底なし沼の要素が強くて、高いケーブル使ってみて「音変わったように聴こえる!けどそれって多分にプラシーボ効果に因るのではないのだろうか?」という微妙さが常に付きまとうジャンルなわけであります。そういう点から考えると、今回のシールド交換による音の変化はかなり明瞭であったと思う。まず、ブランドイメージ通りというか、かなり低域のボリュームが増した。密度が詰まったって言い方がいいのかな。反対に、サステインは減。だいぶ硬い音になったような。この辺はエージング(ってあるのか知らんが)で変わってくるかも。事前に思ってたような不自然な肉付けでは無かったので、とりあえず満足か。

| かっつん | 22:31 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
人の個性は自意識から形成される
一番好きなバンドって誰なん?という会話をしなくなって久しいため、最近では表立って口に出す機会が無いのだが、これまで何度かそういうシチュエーションに立ち、それをどうしても言明せんならんことになった時には「Mercury Rev」と答えることにしていた。こう答える己の心情を分析すると、そこには大きく見て二つの意識の作用が見られ、まず一つには音楽についてさしたる興味の無い人間はもちろん、仮に一般的にそこそこ洋楽なども聴き、趣味は音楽鑑賞であると自称する類の人間であっても普通であればまず聴いたことがないであろう辺鄙な立ち居地を占めるRevの名前を出すことにより、相手方に対し取り付くしまを与えず「ふーん、そうなんや、、、」としか言えぬ状況に追い込むことにより会話を強制終了させるためであり、もう一つには、先の理由とも重複する部分もあるのだが、Mercury RevというマニアックなアーティストをMy Favoriteに挙げるワタシってばまぁ何て高尚かつユニークな趣味の持ち主なんでしょうオリコンチャートに溢れるしょうむないJ-Popなどを聴いて満足している輩とはセンスが違うのだよアハハ、アハハ、おもろ。という厨二病特有の優越感を味わうためでは無いだろうかと推測される。さてこの場合、そこで挙げるアーティストの名前というのは非常に重要で、マニアックであれば何でもいいのかというとそんなことはなく、例えばタクラマカン砂漠のオアシスにて満月の夜にトライバルなジャムセッションを繰り広げる"ンジョモ"などというまさしく誰も知らんようなバンド名を挙げるのはこれは駄目なのであって、それは何故かというと、誰も知らんのと同様に自分も実は名前を知るのみで別に全然思い入れも無くただ単にマニアックなだけであり、かようなアーティスト名を挙げてもそれは自分の本心に全く基づかない発言でありつまり嘘を言っているだけなので少しも満足感が生まれないわけで、満足感を根城とする優越感にも結びつかないからである。つまり"我がマジに好きでなおかつ相手方が全然知らない"というのが必要条件となるのです。

ということでMercury Revを挙げていた(もしくは挙げることにしている)わけだが、しかし実はそれと同じぐらいの勢いで好きなバンドがOasisだったりする。思い入れを含めると絶対これが一番好きなバンドになるんだろうな。だがしかし私は決してそれを口にはしない。何故なら仮に先のようなシチュエーションにおいて「おあしすがすきです」などと言ってしまった日にやぁ、2ndアルバムを全世界で1,500万枚以上も売ったビッグバンドのこと、相手もその名前ぐらいは知っている可能性が大いにある。そうすると相手方に入り込む余地を与えずこの話題を強制終了させるという効果は得られないことになり、「あ、オアシスかー。俺も聴くよ。あとバックストリートボーイズとかボン・ジョビとか良いよねー」というような展開へと繋がる恐れが生じ、それに対して私が「バック、、、ストリート、、、ボーイズ、、、聴いたことないっす」とか何とか応えると相手方それに対しさらに勢いづき、「マジで?めっちゃ良いで。今度貸したるよ」などということにもなりかねない。嫌だ。勘弁してほしい。さらに先に述べたもう一つの心情である優越感の充足という点においても「オアシス聴いてるんだよ俺はすごいだろあははあはは、おもろ」みたいなことには決してならない。実は異常に幅広く深い音楽遍歴があり見識も大変豊富で、マニアックな音楽通として一目置かれているが実は一番好きなアーティストはOasisである、という意外性を利用する逆転発想的な超高等テクニックを用いることが可能なシチュエーションでない限りは、決して優越感を満たすことが出来ないことになる。だからホントは本当はオアシスが大好きなのにオアシスが大好きだと公言しない老若男女はわりと数多く棲息していると思うのだがそんなあなたに贈る本日の記事。〈-以上全て前置き-〉





Amazonで注文していたOasisの「Lord Don't Slow Me Down」が届いた。先のDon't Believe The Truthツアーの様子を収めたライブ・ドキュメンタリー。日本国内では超プレミアものの試写会があった以外は、確か有料放送でショート・ヴァージョンが公開されるに止まる作品。DVD化は無いという話であったが、やはりというか今回DVD化された。ボーナスのDISC2には「05年の7月2日のシティ・オブ・マンチェスター・スタジアムでのギグが13曲/70分、収録されてる。これについてはブートで流れてたのとまんま同じで、特に目新しいものでは無いんだけど、さすがに画像は良くなってる。熱狂するオーディエンスにより(?)オープニングで最前列の柵がぶっ壊れて演奏中断するというスタート模様。修繕の間待つクラウドに対し、「まぁ2,3歩下がって待ってろ。どうせ後で屋根が落ちるようなライブしてやるから」なんてのたまうノエルに痺れる(笑)で、「まあこのスタジアムにゃ屋根は無いけどな、気にすんな」というお茶目さでござい。個人的にこれまでBe Here Now期のツアーでのセットやアレンジが一番好きだったんだが、今回のツアーはそれに比肩するぐらい格好ええ内容になってる。ここまでバンドが持ち直すとは正直思ってなかったので、05年は大変嬉しい年でもありました。今週末はこれ共々、肝心のドキュメンタリーも楽しみたいと思います。
| かっつん | 21:36 | comments(3) | trackbacks(0) | pookmark |
牧野修/ネクロダイバー 潜死能力者


07年11月文庫化。
牧野作品に共通して在るのが、理不尽な死や悲劇に見入られた者や、被虐される小さな存在への慈しみの視点。慈しみと言うと変かもしれんが、とりあえずそれらの者が物語中で実際的に救われることはほとんどなく、奪われる者は奪われ犯される者は犯され殴られる者は殴られ殺される者は殺される。オブラートの欠片も無く描写されるおぞましい光景は、残酷なまでの徹底っぷり。行為者が醜悪であればあるほど、被虐される側の聖性が増すように感じられるのは面白いもので、死というものを一つの究極へと高めることで、消え行く者を美しくデコレートするのが牧野流の救済なのかも。

直接内容と関係ないことを書いてもた。今作は短編4編を連結させたダークヒーローもの。正義と悪っちゅう分かり易い図があり、キャラ設定もとても軽い。軽すぎじゃあ〜という向きもあるが、当たり外れの大きい牧野作品の中では、個人的には結構楽しめた。何も考えずにサクっと読めた。後には何も残らんし、も一度読みたいとも思わない。が、読中の昂揚感は高くて良いと思った。スプラッターなグログロの事象を、美麗繊細な言語で操る牧野流エンターテイメントが好きなら、今作はけっこうオススメ。傀儡后みたく、病質的に盛り立てられた濃密世界設定が好きな人にはたぶん物足りないだろうけど。

| かっつん | 22:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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