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森見登美彦/四畳半神話大系


"もしここから出ることができれば、色々なことがしたいと考えた"


かつて書店でぶらり立ち読み、無類の語り口に惹きこまれ時を忘失、100頁近くを繰ったものの結局お金が無かったため買わなかった作品が文庫化された。喜ばしいことだ。それを待つ間に先行して『太陽の塔』『走れメロス』といった作品を読んでいた。

そして本作。その無類の語り口には微塵の揺らぎもないっ!のだが、そうした見栄えの良い形容が似合わないところが魅力なんである。無駄に多くを語らない、という美徳があるとすれば、これは斯様な美徳に真っ向からお尻を向けている。フリフリしているかもしれない。見る人の視点によっては、そのお尻は大変にキタナイものかもしれない。しかしまた別の視点から眺めると、そうして世に向け放たれたお尻達は、珍妙ながらたいそう愛しくも映るのだ。

主人公は先の『太陽の塔』と同じく京都の学生(前のは院生だが)。人並み以上の誇りにマミレ、絡み憑く自意識に囲い込まれて二十数年、かつて天使のようだった見目も堆積するホコリの内へと埋没し、今はただ『薔薇色のキャンパスライフ』なる妄想を純粋培養する大学3回生の「わたし」。構成へ目を遣ってみる。本作は4つの章から成っている。登場人物は極めて限定されている。描かれる世界はある意味とても小さい。そしてそこに意味がある。4話を通して読むと、最後にそのことが実に自然にふはふはと浮かび上がってくる。これがホントに凄くイイ。

ほとんど悪ノリの態で紡がれる言葉に立ち向かう術はない。読めば呑まれる。無用の長物こそを武器に選び出すような、どうしようもない阿呆さと愛しさは、その人物造形や世界観と共に通底した魅力となって、ぐるぐると活発に、半ば無駄に動き回っている。作中で「わたし」はこんなことを言う。


これは悲劇でもなく喜劇でもない。これを読んで涙を流す人がいるとすれば、それは感受性が不必要なまでに鋭いか、コンタクトレンズにカレー粉が付着していたか、いずれかに違いない。また、これを読んで腹の底から笑う人がいるとすれば、私はその人を腹の底から憎んで地の果てまで追い、親の敵のように熱いお湯を頭からかけて三分待つことであろう。


しかし不覚にも、ひっそりと並べられた4つの世界を読む間にワタシは電車の中で何度も堪え切れずに吹き出し、読後にはしっかりと己が涙腺を刺激された。先に書いたように、舞台設定は『太陽の塔』に近しい。だけどここには、前作には無かったような一つの仕掛けが用意されている。その仕掛けが分からないぶん、第2章あたりで一瞬躓く。現に自分も「なんたる怠慢!」「これでは体の良いコピー&ペースト地獄ではないか!」と登美彦氏ばりに憤りかけたりもした。しかし、その作りこそが肝だったのだね。作中、こんな台詞が出てくる


「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」


この台詞が冒頭の一文と結びついた際のカタルシスや半端ない。可能性ではなく、不可能性の認識から振り返り見た世界。その鮮やかな感触を最後にふわりと描き出した本作は、私的には稀に見る傑作。巻末解説は同じく大好きな作家/佐藤哲也氏が書いている。以前『熱帯』の感想にて森見さんとの共通項を書いたけど、森見作品が好きな人は、一度佐藤氏の諸作も読んでみると面白いかもしれない。ただし保証はしない。

最後に、森見氏の文体がイケルかイケナイかは、氏のblogを覗いてみればすぐに判る。これが無料で読めるのか!と驚いた人がいるとかいないとか。まさに小説そのものの面白さ!な内容であります。


『太陽の塔』の感想は→コチラ
『夜は短し歩けよ乙女』の感想は→コチラ
| かっつん | 22:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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